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【本】「絞首刑」

 死刑制度に賛成でも反対でも。抽象的でアカデミックな議論も必要だろう。でも。ふと考える。そもそも日本で死刑とは、どのように執行されているのか。それに関わる人々、死刑囚はもちろんその家族、被害者遺族、実際に刑を執行する刑務官、教誨を行う宗教者、執行に立ち会う検事…は、何を考え、感じているのか。一般にはまったくと言っていいほど知られていないし、関心も持たれていない。いや、関心を持つ前に、抽象的な廃止論や感情的な「吊せ」という声の前に、思考停止になってしまうのかもしれない。

 先進国で死刑を存置しているのは日本やアメリカなどごく少数。そのアメリカでも一部の州では、執行にジャーナリストが立ち会うことも許されるという。翻って日本。きわめて秘密主義が強く、法を超えた裁量が横行する法務・刑事司法行政の下、死刑に関する情報はほとんど公開されていない。

 死刑の現場とは。著者が死刑囚と面会や手紙の交流を重ね、死刑囚の家族や被害者遺族の声に耳を傾けていく。

 取り上げられるのは、栃木・今市四人殺傷事件、愛知・半田保険金殺人事件、埼玉・熊谷四人拉致殺傷事件、福岡・飯塚女児殺害事件、そして木曾川・長良川連続リンチ殺人事件の5件。

 どんな事情があったにせよ、(犯行を否認している飯塚事件を除いて)いずれの事件も情状の余地はない。事実認定に多少の争いがあったとしても、自身の勝手な都合で複数の無辜の人間を殺めた。被害者遺族が死刑を求めるのも当然だろう。それを前提に、著者青木理氏は、名古屋拘置所で面会交流を重ねた「木曾川-」事件の元少年3人を軸に、それぞれの事件の当事者の心象風景、心の中を描いていく。

 中には、被害者遺族が死刑囚と面会することで、死刑執行をやめるよう求めるケースもある。もちろん、死刑判決が出ても、何の区切りもつかず、何十年経っても死刑囚を許せない遺族もいる。執行に立ち会った宗教家は、その光景が頭から離れない。

 あるいは、弁護士が勧めた上訴を自ら取り下げ一審の死刑判決を確定させたものの、調書の改竄や判決の事実認定に抗議し「反省はしない」と言い切る死刑囚がいれば、贖罪のため遺族へわずかな作業賃を拒否されても送り続ける死刑囚もいる。死刑になったから反省した、あるいは事件を見つめ直した、という評価もできるであろうし、恩赦狙いの反省のふりと見えることだってあるかもしれない。

 こうした取材を通して浮かび上がるのは、法務行政の極端な官僚主義、秘密主義だ。法を無視するような法務当局の裁量によって接見交通権が著しく制限され、被害者遺族の求めすら叶わないケースがある。キリスト教に帰依した死刑囚を、法務当局の面子や都合によって12月25日のクリスマスに執行したこともある。拘置所の面会室で、確定前の死刑囚を〝隠し撮り〟した著者には、法務省から頓珍漢な抗議文を送られてきた。

 賛否はともかく、まず何が行われているのか、私たちは何も知らない、知らなかった。

 ところで、本書の中で異彩なのは、飯塚事件の項目だ。残念ながら、すでに執行された元死刑囚と著者の直接の交流はなく、この項だけ冤罪の可能性を示唆する内容となっている。「殺人犯はそこにいる: 隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件」でも触れたが、飯塚事件では、すでに死刑執行されている男性に冤罪の可能性が指摘されている。足利事件では、決定的証拠となった「DNA型鑑定」の杜撰さ稚拙さが明るみになり冤罪が証明されたが、飯塚事件も同じ手法で同じメンバーが杜撰な「鑑定」を行い、それが死刑確定判決の証拠として採用された。

 飯塚事件で死刑が執行されたのは、足利事件でDNA再鑑定が決まった2008年12月19日の2か月前、2008年10月28日だった。この妙なタイミングについて、「殺人犯-」の著者清水潔氏は、法務当局の縦割り行政の結果として陰謀的な見方を否定している。一方、「絞首刑」の著者青木理氏は、何らかの法務当局の意図を示唆している。もちろん真相は不明である。

 いずれにせよ、飯塚事件のDNA型鑑定は、再審請求審で証拠から退けられ、証拠として杜撰であったことに争いはない。ほかは情況証拠のみで、本人が無実を主張していた。にも関わらず死刑を確定させたこと、完全に不可逆な罰である死刑を異例の早さで執行したことは、冤罪かどうかはさておいても、致命的なミスであったのではないか。

 足かけ2年がかりという労作。死刑に賛成でも反対でも、読まれるべき一冊だと思う。

 

絞首刑 (講談社文庫)

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